新着情報 / 活動報告
2022.09.04
「談・唱・晩・夏」講談×音楽ライブ
9月4日
「談・唱・晩・夏」講談×音楽ライブ
本日、昼から大津市伝統芸能会館において、大津市出身の講談師、旭堂南風さんとシンガーソングライター、まつうらようこさんのライブが開催され、参加してきました。地域の会議があるため途中退席せねばならず、誠に残念でした。
まつうらさんのライブは2度目ですが、素晴らしい歌声で、歌詞もメッセージが込められており、聞き入ってしまいますね。「みずうみのうた」歌詞も曲も良いですね。「この手は何のためにある」と歌う曲もとても印象的でした。
講談は、以前にも聞いたことがある内容ですが、三井寺二伝わる伝説をモチーフとした創作講談です。大変興味深い内容で、日吉大社に「ねずみのほこら」がありますが、唯一動物を祀る、しかも「ねずみ」を祀る祠です。そのいわれに関わるお話でした。
調べると、以下のような話しです。
三井寺(園城寺)の頼豪阿闍梨は祈祷を能くする高僧であった。承保元年(1074年)、子のなかった白河天皇は「恩賞は望みのまま」と、皇子誕生の祈願を頼豪に命じた。早速頼豪は100日間の祈祷を行い、見事に中宮は懐妊。その年には無事に男児(敦文親王)が生まれた。
天皇は大層喜び、召し出して願いを聞く。すると頼豪「三井寺に戒壇建立を」と願い出る。この戒壇建立は三井寺の長年の悲願であるが、対立する比叡山延暦寺がことごとく反対して紛争の火種となっていた。再び大寺院同士の戦いが起こることを怖れた天皇は、頼豪のたっての願いを最終的に認めなかったのである。
約束を反故にされた頼豪は怒り狂い、寺に戻るとそのまま餓死して呪詛をおこなおうと、自分の寺坊に籠もって祈祷を始めた。その噂が天皇の耳に入ると、慌てて頼豪の交流のある大江匡房を召し出して説得に当たるように命じた。
匡房が面会しようとするが、頼豪はそれを拒否。
「天皇のお言葉に戯れ言はない。所望が叶わないのであれば、我が祈祷でお生まれになった皇子である。お取り申し上げて、魔道へ行くことにしよう」と言い放って追い返した。
匡房はやむなく戻り天皇に伝えるが、直後に頼豪は餓死してしまった。そして手を打つ間もなく皇子が病にかかってしまう。しかも皇子の枕元に白髪の老僧が錫杖を持って佇む姿を、多くの者が夢幻のように見たのである。さまざまな祈祷の甲斐もなく、やがて皇子は亡くなる。
嘆き悲しむ天皇は、これもまた祈祷を能くする延暦寺の良真僧正に相談した。すると良真は比叡山で100日の祈祷を行って、再び中宮が懐妊する。そして生まれた皇子が、後の堀河天皇である。
『平家物語』の“覚一本”に記載された頼豪阿闍梨の怨霊の話は以上のようであるが、この怨霊がさらに変化して大鼠の化け物になったという伝説も、かなり古くからある。
同じ『平家物語』の“延慶本”には、山門(延暦寺)があるから戒壇建立の宿願が叶わないとして、呪詛の対象を延暦寺に向け、大鼠(頼豪鼠)となって延暦寺の経典や仏像を食い荒らしたとしている。また『源平盛衰記』では、大鼠となるきっかけが堀河天皇の即位でありとしている。さらに『太平記』では、堀河天皇誕生の際、延暦寺の守りが鉄壁であったために呪詛が通じなかったため、“鉄の牙、石の身体の84000匹の鼠”に変化して延暦寺を襲ったとする。ここにおいて妖怪“鉄鼠”が完成したと考えられる。
この頼豪の攻撃にはさしもの延暦寺も大いに悩まされ、とうとう坂本に“ねずみのほくら(秀倉/宝蔵)”を建てて神として祀ったのである。これが日吉大社の境外末社の鼠社(祭神:大国主命)であるとされる。
さらに三井寺の境内にも“鼠の宮”と呼ばれる十八明神社がある。こちらは三井寺の土地や伽藍を守護する神々を祀ったものとされるが、大鼠の霊も祀り鎮めているとされ、社殿は延暦寺を向いている。観音堂へ上る石段の脇に祀られる十八明神は、本来は伽藍を守護する神ですが、 一般には「ねずみの宮さん」と呼ばれ、人々に親しまれています。
「談・唱・晩・夏」講談×音楽ライブ
本日、昼から大津市伝統芸能会館において、大津市出身の講談師、旭堂南風さんとシンガーソングライター、まつうらようこさんのライブが開催され、参加してきました。地域の会議があるため途中退席せねばならず、誠に残念でした。
まつうらさんのライブは2度目ですが、素晴らしい歌声で、歌詞もメッセージが込められており、聞き入ってしまいますね。「みずうみのうた」歌詞も曲も良いですね。「この手は何のためにある」と歌う曲もとても印象的でした。
講談は、以前にも聞いたことがある内容ですが、三井寺二伝わる伝説をモチーフとした創作講談です。大変興味深い内容で、日吉大社に「ねずみのほこら」がありますが、唯一動物を祀る、しかも「ねずみ」を祀る祠です。そのいわれに関わるお話でした。
調べると、以下のような話しです。
三井寺(園城寺)の頼豪阿闍梨は祈祷を能くする高僧であった。承保元年(1074年)、子のなかった白河天皇は「恩賞は望みのまま」と、皇子誕生の祈願を頼豪に命じた。早速頼豪は100日間の祈祷を行い、見事に中宮は懐妊。その年には無事に男児(敦文親王)が生まれた。
天皇は大層喜び、召し出して願いを聞く。すると頼豪「三井寺に戒壇建立を」と願い出る。この戒壇建立は三井寺の長年の悲願であるが、対立する比叡山延暦寺がことごとく反対して紛争の火種となっていた。再び大寺院同士の戦いが起こることを怖れた天皇は、頼豪のたっての願いを最終的に認めなかったのである。
約束を反故にされた頼豪は怒り狂い、寺に戻るとそのまま餓死して呪詛をおこなおうと、自分の寺坊に籠もって祈祷を始めた。その噂が天皇の耳に入ると、慌てて頼豪の交流のある大江匡房を召し出して説得に当たるように命じた。
匡房が面会しようとするが、頼豪はそれを拒否。
「天皇のお言葉に戯れ言はない。所望が叶わないのであれば、我が祈祷でお生まれになった皇子である。お取り申し上げて、魔道へ行くことにしよう」と言い放って追い返した。
匡房はやむなく戻り天皇に伝えるが、直後に頼豪は餓死してしまった。そして手を打つ間もなく皇子が病にかかってしまう。しかも皇子の枕元に白髪の老僧が錫杖を持って佇む姿を、多くの者が夢幻のように見たのである。さまざまな祈祷の甲斐もなく、やがて皇子は亡くなる。
嘆き悲しむ天皇は、これもまた祈祷を能くする延暦寺の良真僧正に相談した。すると良真は比叡山で100日の祈祷を行って、再び中宮が懐妊する。そして生まれた皇子が、後の堀河天皇である。
『平家物語』の“覚一本”に記載された頼豪阿闍梨の怨霊の話は以上のようであるが、この怨霊がさらに変化して大鼠の化け物になったという伝説も、かなり古くからある。
同じ『平家物語』の“延慶本”には、山門(延暦寺)があるから戒壇建立の宿願が叶わないとして、呪詛の対象を延暦寺に向け、大鼠(頼豪鼠)となって延暦寺の経典や仏像を食い荒らしたとしている。また『源平盛衰記』では、大鼠となるきっかけが堀河天皇の即位でありとしている。さらに『太平記』では、堀河天皇誕生の際、延暦寺の守りが鉄壁であったために呪詛が通じなかったため、“鉄の牙、石の身体の84000匹の鼠”に変化して延暦寺を襲ったとする。ここにおいて妖怪“鉄鼠”が完成したと考えられる。
この頼豪の攻撃にはさしもの延暦寺も大いに悩まされ、とうとう坂本に“ねずみのほくら(秀倉/宝蔵)”を建てて神として祀ったのである。これが日吉大社の境外末社の鼠社(祭神:大国主命)であるとされる。
さらに三井寺の境内にも“鼠の宮”と呼ばれる十八明神社がある。こちらは三井寺の土地や伽藍を守護する神々を祀ったものとされるが、大鼠の霊も祀り鎮めているとされ、社殿は延暦寺を向いている。観音堂へ上る石段の脇に祀られる十八明神は、本来は伽藍を守護する神ですが、 一般には「ねずみの宮さん」と呼ばれ、人々に親しまれています。
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